観光危機管理の今日的意義

近年、多くの観光地で「海抜○メートル」といった標識を目にする機会が増えた。いざという時、観光客を危機からいかに守っていくか、住民の防災対策とはどこが違うのか、どんな準備が必要か、などのいわゆる「観光危機管理」について、沖縄県や青森県などのように地域や観光事業者が一体となった計画づくりに取り組む地域が増加している。観光危機管理は、危機管理一般に対する見識に加え、観光地における観光客の心理や行動特性など観光に関する知識が求められる専門分野の1つといえる。本コラムでは、観光における危機管理の今日的意義について、危機管理本論から導いてみたい。

そもそも「危機管理」(Crisis Management)という言葉が定着し、研究の対象として意識され始めたのは、1962年のキューバ危機の際に、アメリカ合衆国政府が旧ソ連との間で高まった緊張を収拾した過程が契機になっているといわれる。キューバ危機では、旧ソ連によるキューバへの各ミサイル基地建設の問題が焦点となったが、その後、日本では、軍事的危機のほか、自然災害、事件・事故等、経済的危機が主な危機管理の対象とされているが、近年は特に継続的な企業経営という視点からも論じられることが多くなった。

日本で「危機管理」 が注目されるようになったのは、平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災において国や地方公共団体の初動の遅れが指摘され、その後政府・地方公共団体を含めた危機管理について、国会等各方面から様々な議論が起こったことが大きな契機となっている。

ただし「危機管理」の明確な定義づけは難しく、研究者等によって差異がみられる。「事態を安定・収拾へ対応策を操作する」、「社会的経済的脅威が広く対象となる」、「被害を極小化し可能な限り早く正常状態への回復を図ろうとする考え方」など捉え方が異なる。このことからも「危機管理」は、個々の状況に応じて実践的に研究されるべき性格のもので、行政機関や企業等が、場合によっては連携して、その目的、必要に応じて危機を想定し、対処法等について検討するものであり、定義づけそのものにあまり実益があるようには思えない。

ちなみに、「危機管理」が日本の法令用語として最初に用いられたのは、平成10年3月に成立した「内閣法等の一部を改正する法律」においてであり、同法では「国民の生命、身体又は財産に重大な被害が生じ、又は生じるおそれがある緊急の事態への対処及び当該事態の発生の防止」と定義している。ここでは、緊急に国民生活の安全を確保するための措置をとることが必要となる事態であって、石油ショックや金融危機のようないわゆる経済危機とは異なる。

危機による被害を最小限にするために必要なこと

経済危機を除く身体、生命、財産に関連した緊急事態への対処として重要なことは、被害の発生を回避し、あるいは被害を最小限にくい止めるために、住民の避難、被災者の救出、緊急事態の原因の除去・滅殺等の措置をとり、事態を収拾することである。これらの措置は、行政(役所の総合調整機能のほか、消防・警察・自衛隊・海保などの実働部隊行動を含む。)、事業者、ボランティア等が主体それぞれの特性を見極めた上での、タイミングに応じた総合力発揮が求められる。また、事態発生直後の応急対策時期においては、実働部隊相互の連携が極めて重要となる。それぞれの機関が情報収集、住民避難、救急・救助を実施する上で、その特性を活かす形で役割分担を調整し、最大の効率で能力発揮させることが初期の段階では極めて重要である。陸上戦力と航空戦力それぞれについて、各機関のミッションとその組み合わせを平時から連携して検討し、計画し訓練を行っておくことが何より重要なのである。

実際の緊急事態対応では、事態が計画通りに進むことはあり得ず、適時修正し、場合によっては計画とは全く別の決断が必要となる場合もある。よって、訓練を行う場合も、シナリオ通りのものではなく、訓練される者が発災後タイミングに応じた状況判断を行う形のゲーム型図上訓練を取り入れ、検証を繰り返していく必要がある。住民を巻き込んだ訓練を行う場合でも、できるだけ住民に状況に応じた行動イメージを自ら考えていただくものが望ましい。

危機管理に重要なことの一つに情報管理が挙げられる。情報の内容によって対策本部の設置や各種オペレーションが行われるので、情報伝達のあり方、絞り方が問題となる。事実のみを示す多くのインフォメーション(information)を如何に取捨選択・整理し、インテリジェンス(intelligence)を構築し提案していくかが大切になる。

そして、総合的で効果的なオペレーションを行うための対策本部は、情報を幅広く収集し、取捨選択・整理し、対応策を決定し、各部署に伝達し迅速に実行に移すための総合調整機能を果たすことが重要な使命となるものである。

日本における住民と危機管理

危機管理の対象が多岐に渡ることについては前述の通りだが、大きく分類すると、自然災害・重大事故対応と武力攻撃・テロ対応に分かれる。日本において、住民行動について規定する法律でいえば、それぞれ「災害対策基本法」と「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)」に分けられる。「災害対策基本法」は、1962年の伊勢湾台風を契機として制定されたもので、そもそも自然災害への対応を前提に規定されたものである。近年、よく議論される「避難勧告」「避難指示」「警戒区域の設定」等が盛り込まれているが、基礎自治体である市町村がその対応に一時的責任を有し、情報の流れもボトムアップ型である。日本は災害の多い国ではあるが、市町村単位で言えばやはり「数十年に一度の災害」といった意識も強い。したがって、近年かなり改善されてきたとはいえ、未だ住民避難等について平時の訓練を含め、住民を巻き込んだ形で対策が十分取れているとは言い難い。これに対し、ヨーロッパ諸国や韓国に見られるような国は、武力攻撃に備えた形で住民対策を含めた危機管理が進んでいる。こうした武力攻撃事態に対する住民避難は、情報がトップダウンで国から与えられ、住民避難や救援等の指示もトップダウンで行われるケースが多い。そして、平時からの国民保護訓練が、住民避難等の局面では自然災害対応に生きてくる場合も多いのである。そうした意味では、日本の国民保護法は、紆余曲折の末2004年に施行されたものであり、その成熟的運用にはまだまだ時間がかかるものと思われる。こうした経緯を踏まえると、日本は戦後、伊勢湾台風、阪神淡路大震災、東日本大震災などの大災害からの教訓から、武力攻撃事態における国民保護とは一線を画す形で、少しずつではあるが進歩してきたものと言える。そして、それでも最も大切である住民自らの防災意識向上、自主防災組織・消防団等の強化や実践的住民避難訓練などについては、残念ながら未だ発展途上であると言わざるをえない状況にあると考えられる。

「観光危機管理」の本質は何か?

観光危機管理の特性を危機管理本論との比較で考慮すると、観光客は、一般的にその地に不案内で、地域の災害リスク属性、災害に応じた避難経路、対策本部や拠点病院など施設への連絡方法や配置状況を知らないことを前提にしなければならない。これは、災害対応等において通常極めて重要な要素である、事前知識や事前訓練から得る参加者の合理的行動は期待してはいけないことを意味する。すなわち、観光客は土地の属性や施設等に不案内であるから、観光関係者が主体となって、観光客に予め与えておくべき情報、発災した場合に観光客が避難するための誘導主体・誘導方法等を計画上整理しておく必要がある。これが、平時から住民と、広報や訓練によってある程度の共通認識がなされている場合と大きく異なる観光危機管理の特質である。何もわからない観光客をどう救っていくのか、観光関係者の行動が観光客の生死をも分けてしまうこととなる。観光危機管理の必要性、重要性の一つはここにあると言えよう。

観光地は、観光危機管理計画を策定し、災害を受けるリスクを告知することで観光客は減少してしまうのだろうか。答えは否である。観光客の生命、身体、財産の保護を大切に考え、様々な危機への対応をしっかりできていることは、訪れる観光客に大きな安心感を与える。地域における危険箇所等を示すハザードマップも、20年前は住民の批判を恐れ、作成したがらない市町村が多かったが、今ではほとんどの市町村が積極的に取組んでいる。災害が起こらないようにすることと、いざ災害が起きてしまったときにどう行動するかを予めしっかり考えておくこととは全う違う話であることに多くの人が気づいたものと言える。

寝た子を起こすな的に何も危機管理をしていない観光地は、皆の信頼を失っていくことになるものと考えられる。ましてや、実際に災害を受けてしまった場合に想定される不適切な対応は、致命的な打撃を与えてしまうおそれがある。こうしたことから、観光地はむしろ観光危機管理にしっかり取り組んでいることが観光客誘致にも大きなプラスに働くことになるものである。

「観光危機管理」の今日的意義

冒頭で述べた通り、観光危機管理は、危機管理一般に対する見識に加え、観光地における観光客の所在・導線など観光に関する知識が求められる専門分野である。地域にとって、観光危機管理計画、避難マップ、標識、情報伝達手段の多元的構築、実践的訓練に加えて、関係者間で観光危機管理意識を醸成し、共有し、進化していくことが大切なステップとなろう。また、今後インバウンドの増加も見込まれるなか、災害リスクの非常に高い日本の観光地が世界から信頼を受けるものであろうとするならば、観光危機管理への積極的な取組みは不可欠なものであり急務ではないだろうか。

2013.10.9(JTB総合研究所)

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